【訃報】野村克也氏死去!輝かしい経歴と名将を称える選手コメントを紹介 | VODの殿堂

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【訃報】野村克也氏死去!輝かしい経歴と名将を称える選手コメントを紹介

   
 

2月11日にあのノムさんの愛称で親しまれた野村克也氏が、虚血性心不全によりこの世を去ったとの訃報が報道されました。

死因が2017年に亡くなった妻の野村沙知代夫人と同じだったことも、おしどり夫婦として有名だったことを思い出させるものでした。

南海、ヤクルト、阪神、楽天を率いてきた名将監督として名高い人が、また一人この世を去ってしまったのです。

野村克也氏の軌跡

平成の野球史を語るには、野村スワローズを欠かす事はできません。

当時のヤクルトというと、戦力的には決して恵まれていた訳でなかったのです。

しかし、データを重視した「野村ID野球」を掲げては、打倒・巨人を実現させたり、「野村再生工場」といわれるような選手起用法も見事な手腕を見せたりしてくれました。

野村氏は、ヤクルトの監督として、通算9年でリーグ優勝4回、日本一3回というすばらしい成績を残しています。

選手としては、野村氏は巨人の大ファンだったことから、巨人に入団したいと思っていましたが、巨人には不動の正捕手が活躍していたことから入団を断念し、捕手層が薄いくて、高齢化している南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考え、1954年、南海ホークスに契約金0円のテスト生として入団しました。

入団後というと、シーズン当初は出場機会が無く、代打での初打席は三振、結局一年目の成績は、9試合で11打数無安打でした。

そしてその年のシーズンオフにマネージャーに呼び出されて、戦力外通告を受けましたが、秋季キャンプ中に正捕手が交通事故、2番手捕手は高橋ユニオンズにトレード、3番手捕手に関しては頭部に死球を受けてケガをしたことで捕手不足となったことで状況が急転して残留が決定します。

野村氏のコメント
「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し、担当マネージャーに「お前のような奴は初めてだが、若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。

選手時代の成績

・史上2人目の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)
・選手出場試合数歴代2位
・監督出場試合数歴代3位
・通算本塁打数歴代2位
・通算安打数歴代2位
・通算打点数歴代2位
・通算打席数1位(11970打席)
・通算打数1位(10472打数)
・通算犠飛数歴代1位(113犠打)
・通算併殺打1位(378打)
・ベストナイン19回受賞で1位など

できないと言われ続けたテスト生がこれだけの活躍をするとは、当時は誰も思わなかったでしょうね。

1963年に記録した52本塁打は、後に1985年に落合博満も並びますが、それ以降今だに破られることのない日本出身の日本国籍選手における1シーズン最多本塁打記録であります。

阪神監督時代の野村克也氏

阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていましたが、ヤクルトの監督退任直後の野村氏に監督要請し、受諾され外部からの監督就任!しかも野村克也!と世間を驚かせました。

久万俊二郎オーナーが直々に交渉
「今まで球団が監督要請をした中で、私が直接出てきてお願いするのは野村さんが初めてです」・「今、タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのにあたり、監督にふさわしいのは野村さんしかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右に出る者はいません」と熱っぽく語り落としたというのです。

またファンの人気も絶大だった野村氏が、「野村TOP野球」(TOPとは、Total・Object lesson・Processの略語)をチームのスローガンとして、開幕直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ったものの、オールスター戦を挟んで9連敗、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わりました。

また、話題作りも多く、安芸キャンプにおいては、新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、そのほかにも遠山と葛西稔のスイッチ起用、遠山 – 葛西 – 遠山 – 葛西、と一旦 1塁を守らせて交代させる手法を使い、阪神の選手層の薄さから抑え投手不在をカバーするといった、野村さんらしい作戦を次々と繰り出していました。

2000年は、4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上し「今年は違うぞ」という印象を与えたのですが、すぐさま6連敗した以降立て直しがきかずに、球団史上初の3年連続最下位に終わりました。

2001年は、4番として自己最高の成績を収めた新庄が、FAで前年オフにニューヨーク・メッツへ移籍してしまいます。

そんな厳しい状況の中でも、若手選手の育成に力を注ぎ、赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎、平下晃司、松田匡司、高波文一という俊足な7人の選手を野村氏曰く「スーパーカーはもう古い、これからの時代はF1」ということで「F1セブン」と名付けて売り出しました。

しかし実は俊足選手として重宝されていた田中秀太を忘れたこともあり、発表翌日に「秀太忘れとった、F1エイトや」と言って訂正しました(笑)

だが、この年はこれといった話題になることもなく、チームは、打率・得点・本塁打でリーグ最下位で、この年も順位は最下位になってしまうのです。

2001年10月19日に来季の首脳陣が発表され野村氏の留任も発表されます。

そして、秋季キャンプの指揮はおこなったものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕されたことで、12月5日に辞任を発表しました。

結局、阪神の監督としては、3年連続最下位で終わったのです。

翌年の2002年には、星野仙一監督が指揮を執ることになります。

そんな野村氏は、「阪神に行ったのは大失敗だった」と始まり、そのほとんどがぼやきで埋め尽くされたインタビューのコメントを残したのです。

阪神監督では3年連続最下位でしたが、後に星野仙一監督によって成し遂げられた03年のリーグ制覇には、野村氏が基盤を築いたおかげとする声もあります。

野村氏は「星野もそんなこと言っとったけどな」と言うが、記憶に刻まれているのは暗黒の3年間だったそうです。

スポーツ界全体から愛された野村氏

筆者も思う野村氏の偉大さ

筆者は阪神ファンなので、阪神での監督時代を中心に紹介させてもらいましたが、楽天では阪神時代同様、野村氏が基礎を作り、星野氏が優勝チームを作り上げるという、必勝ルートを作り上げたように思います。

またID野球の申し子である古田敦也氏を生み出したのも、野村氏の指導者としての手腕そのものだと思います。

現在の阪神タイガースの基盤を作ったのが、野村克也氏だと誰もが思う中でも、本人は自分が作ったのではないと言い切れるのは野村さん独特の照れ隠しだったのではないかと思っています。

筆者自身、阪神タイガースのフロントで大いに手腕を発揮して欲しかったと今でも思うのです。

ぼやいて、ぼやいて、全選手や首脳陣の意識改革をして、猛虎時代を築いてもらいたかったと思うファンは少なくないはずです。

ぼやかれてばかりだったであろうはずの選手たちから、次々と野村氏の偉大さを伝えるコメントがあがってくることからも、いかにすごい人物だったかがわかります。

野村氏から野球を叩き込まれた教え子たちは、すでに監督や指導者の立場になっている人が多いです。

次の野村イズムを継承する選手が現れることを期待したいですね。

天国でも星野さんと二人で野球の話をしていてほしいな、と筆者は思うとともに、ノムさんのご冥福をお祈りしたいと思います。

今年の開幕試合、ヤクルト、阪神、楽天は野村氏の追悼試合になるかもしれません。

野村さんにどのような試合を見せるか、各球団の試合ぶりを見逃さないようにしましょう!

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