NHK紅白歌合戦に出場するなど、活躍していた演歌歌手の加門亮さんが、がんによる多機能不全で3月30日午前10時54分に都内の大学病院で永眠されました。
2019年3月から病気療養していましたが、61歳の若さでこの世を去ってしまったのです。
所属事務所代表によると、加門さんは2018年の8月ごろから腰の痛みを訴えており、最初は整形外科を受診しましたが原因が分からず、その後に内科を受診してところ胃がんが見つかりました。
2019年の3月に入院しましたが、この時にはすでに手遅れの状態であり、余命2カ月の宣告を受けていたのです。
もう一度ステージに立つために戦っていた
加門さんはそれでも「もう一度、歌いたい!」という強い意志で1年間、病に立ち向かっており、その頑張りのおかげで一時は退院できるまで体調が回復します。
しかし、強い意志で病気に勝つと頑張っていた加門さんも病魔には勝てませんでした。
肺、肝臓、リンパ、骨盤と最後は全身に転移しており、3月中旬には「いつなにがあってもおかしくない」と医師からの宣告を受けていたのです。
3月30日の朝に容体が急変し、最期は所属事務所代表に看取られながら天国へと旅立ちました。
加門さんは亡くなる4日前には「もう一度歌おう!」と関係者の励ましに「大丈夫だよ!」と話すなどして、最後まで復帰への情熱を完全に失っていなかったのです。
故人の遺志により、葬儀は近親者による密葬で執り行われ、後日あらためてしのぶ会を行う予定にしています。
加門亮さんの経緯
1988年9月に、シングル「海峡物語」(作詞・吉田旺、作曲・中村泰士)でデビューし、横浜音楽祭優秀新人賞受賞したのです。
「平成の石原裕次郎」と称されるほど、持ち味である低音が響く歌声で、ダンディーにムード歌謡を歌い人気を博しています。
1995年に発売した「男の慕情」がヒットしたことで、1995年の第46回NHK紅白歌合戦に初出場を果たします。
1996年に発売した「霧情のブルース」が日本有線大賞最多リクエスト曲賞を受賞し、1997年には「麗子」が30万枚を売る大ヒットとなったことで、日本有線大賞最多リクエスト曲賞を受賞したのです。
2001年3月には、ソニーレコードから徳間ジャパンコミュニケーションズへ移籍します。
2007年5月には、徳間ジャパンコミュニケーションズからホリデージャパンへ移籍しました。
その後もヒット曲を出すなど活躍したが、2019年2月14日に出演した企画コンサートが最後のステージとなってしまったのです。
演歌に縁が薄い筆者でも知っていた歌手だけに残念
病気を公表して、治療に専念していて一時は退院間近まで来ていたのに全身にがんが転移していき、そのまま亡くなったのは本人も無念だと思います。
「もう一度ステージに立って、歌いたい」と必死に闘病した加門さんは、プロ魂によるものでしょう。
強い意志を持ち、病魔に勝つと戦う姿きっとファンにも勇気を与えたと思います。
天国で、好きな歌を熱唱して欲しいですね。
ご冥福をお祈りいたします。
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